失われた命の秩序−−何のための予防接種なのか?

  • 2018.05.26 Saturday
  • 11:34

 

 子どもは非合理的な存在に見える。ところが、子どもはまったく一貫した秩序でもって行動している。親が大切にしていたものを壊す、さっき畳んだばかりの洗濯物をひっくり返す、掃除したそばから汚していく。私の注意がそこに向かっていたからだ。子どもが大人の注意が向かうところへ吸い寄せられるのは当然だ。そこから世界を知っていくからだ。

 

 大人からすれば、なぜ?と問いかけたいことばかりする。私の息子は、よくスーパーの床に寝転がった。公共の施設に行くと、大声を出した。きっと、大人たちの周囲に対する緊張や消費への欲望が伝わっていたのだろう。

 

 子どもの極めて合理的な行動を、非合理的だと思う大人たちはどれほど自然の秩序が乱れているのか。子どもを育てるということは、自然と人工物とをどう共存させていくかという問題だ。

 

 人工物で自然を壊すことをやめようというエコロジカルな活動を耳にするようになって久しいが、子どもという自然に対する取り組みが年々厳しくなっているように思うのは私だけではないだろう。

 

 例えば、予防接種。現代の子どもは0歳のうちに年間10本以上の予防接種をする機会がある。任意だから、親が決めてよいものだ。ところが、あまり予防接種を受けないと、近年では児童虐待の疑いがかかることがある。公的な機関が提供する健診の場に顔を出すことは、いまや児童虐待していないことを証明する手形になりつつある。そもそも国は管理のために子どもの健診をしているのだから、わかる話だ。

 

 しかし、何のための予防接種なのか。私が子どもの頃は、2歳で初めて1本受ける程度だったのに(当時は集団接種で必須だったが)。病気をしないために?

 

 確かに、子どもが病気をすると親は病院を駆けずり回るし、寝不足になるし、たいへんだ。しかし病気になった子どもに西洋医学ができることはほとんどないのだ(といっても、命の危機を回避する技術は西洋医学には突出したものがある)。子どもが鼻水出ても、下痢になっても、便秘になっても、咳が出ても、発熱しても、大人のように点滴をして薬を飲んで解決というわけにはいかない。小児科医も薬は最小限度しか出さないし、「お水をよく飲ませてくださいね」「お母さんがんばってますね」とか、そういう話をされる。

 

 大人のように、因果論的な対応が通用しない(大人でも因果論的に病気が治るわけではないが、問題を解決するつもりで病院に行く人が多いだろう)。自然経過に任せる中で、急変や悪化を避けるという感じだ。だから、因果論に慣れてしまった親は不安になる。どうして?なんで?どうしたらいいの?

 

 私は野口整体を通して、こうした不安からは自由になったが、現代社会を支配する病気に対するこうした見方は、むしろ子どもの健康を損ねている気がしてならない。西洋医学が万能ではないし、自然療法も万能ではない。そのときどきで、ぴったり見合った対応を考えるという、秩序ある行動が難しい。

 

 ところで、病気をしないのは何のため? と考えると、どうも、集団保育を可能にするためと思わざるをえない傾向もある。予防接種をしていないと受け入れない保育園も多い。果たしてこれは子どもに対する自然な対応なのだろうか。病気になって、自分で免疫力をつけていく。子どもの命を丈夫にするその期間はどこに行ってしまったのか。

 

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