「手のかからないいい子」は誰にとってのいい子なのか?

  • 2018.09.05 Wednesday
  • 12:52

 

私の息子は生後数週間、とても穏やかに眠ってくれた。「ああ、なんて手のかからないいい子なんだ」と思ったのもつかの間。抱っこしても何しても泣き止まない日々に突入した。寝たかと思ってお布団に寝かせるとパチッと目を開け泣き続ける。「泣きたいのは私だ」と思った日もあった。

 

 「手のかからないいい子」、そう、どうしても私たちは「手がかからない」ことが「いい子」だと思ってしまう。いつからそんな風に思うようになったのだろう。

 

 子どもを産んで数か月経ったとき、ふたりの子をもつ友人から葉書が届いた。「どうですか?育てやすいですか?」と書かれていた。その言葉に違和感をもったことを憶えている。「育てやすい」とはどういうことをいうのだろう?とても一方的な言葉に思えた。

 

 子どもは物ではない。親にとって都合がいい子どもは、どれだけ自分という存在を大切にできていないのだろう。これは実は、私と実母のことだ。私は母にとって都合がいい子どもだった。そのことに違和感を持ち始めたのは、小学3年生くらいの頃だった。


子どもと親は違う人間だ。子どもにも人格がある。子どもにも尊厳がある。そんな当たり前のことを、世話をしている側はすっかり忘れてしまう。ケアをする者とされる者。される者はいつだって弱い立場に置かれる。

 

 しかし、私たちはケアをされる者によって生かされているという側面もあるのだ。ケア関係は反転する。私たちの関係性は、必ず与える者与えられる者という、入れ子構造的な関係で全体をなす。与えている者はその物理的仕事量からつい強く出がちだ。そのことが、与えられる者の主体性を損なわせる。与えるものの主体性も損なわせる。被害者意識を強める。「私はこんなにやってるのにあなたは何で!」と言いたくさせる。

 

 Subjectは、主体・従属するという一見反する意味がある。私たちの個性は、関係性の中で育つ。そこには、一見反するような関係が働いている。私は、子どもによって、母になったのだ。子どもがいなければ、私は母ではない。学生がいなければ、私は先生ではない。私という主体は、いつも関係性の中で決まる。

 

 関係性の中で決まってくる主体が、主体を支えるともいえるしっかりとした丈夫な自我(健康な自己愛・自分を大事にする心)をもつということが、現代日本社会ではとてつもなく難しいのだ。だからこそ、現代社会の犯罪の半数以上が家族の中で起こっているのだ。家族が犯罪の温床となっているというこの現実を、私たちはどうやって気づくことができるのだろう?

 

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